加計学園問題「疑う側が立証しろ」「悪魔の証明」とはこれいかに?

2018年3月11日

加計学園問題まとめ 2記事目。

加計学園問題(疑惑)が公になり、国会でも審議されることとなった。

そして、疑われた側は「疑わしきは罰せず」の論法を用いて、

「疑う側が立証しろ」

などと言っている始末。

これって理論的にどうなん?

客観的事実とそこから推測されること

客観的事実

外形的には、

「総理に親しい人物が運営する学校グループが、

前例にないプロセスで学部新設の許可を勝ち取り、

巨額な公有財産が無償提供されることになった」

ということになる。

そこから推測されること

これが直ちに「悪」ということは断定できないが、

「親しいがゆえに便宜を受ける」

「立場ある者が親しい者に特別な便宜を与える」

という類型的な不正(利益相反)の疑いが当然に生じることになる。

疑う側が何でも立証すべきなのか?

「疑わしきは罰せず」の趣旨を理解していない人の中には、

「いかなる場面、いかなる事案であっても、疑う側が何でもかんでも立証しなければならず、

それができなければ、全てが善として扱われるべき」

と考えている人もいるようだ。

それに照らし、

「安倍総理側の働きかけを疑うのなら、疑う側がそれを立証すべき」

「それができなければ、働きかけはないことになる」

との考えに行きつくのだろう。

「疑わしきは罰せず」の趣旨

「疑わしきは罰せず」とは、刑事手続きの原則のことで、

「刑罰権の発動」という国家権力の個人に対する「人権侵害的行為」が伴う場面では、

万が一でも間違い(冤罪)があってはならない。

それゆえ、「疑いの段階では罰すべきでない」という大前提のことである。

※性善説か否かというレベルの話ではない。

問題になっているのは「行政手続き不正」の疑い

森友学園にしても、今回の加計学園にしても、また、山口敬之レイプもみ消し疑惑にしても、

行政手続きの不正」の疑いが問題になっている。

特定の個人が裁判にかけられ、有罪になるか否か?

という場面ではない。

なので、「疑うに足るだけの客観的事実」があれば、疑う側はそれを問い、

疑われた側は、疑いを晴らすための説明(証人喚問など含む)をすべきことになる。

民主主義とは、行政を監視するシステム

仮に

「反証不能なレベルの証拠がなければ、行政手続きは常に正しいことになる」

「決定的証拠が出せなければ、国民および国会議員は行政を問いただすべきではない」

などという前提がまかり通ってしまっては、

ほとんどの場合、内閣をはじめとした行政側の「やりたい放題」になってしまう。

行政がよくないことをする時に、

「我々行政機関は、今からよくないことをします。国民の皆さんご注目」

とはやらないでしょうからね・・・

「悪魔の証明」にあらず

これも何とかの一つ覚えみたいに、

「疑われた側に証明を求めるのは悪魔の証明だ」

という人もいる。

しかしながら、例えば、医療過誤訴訟では、疑われた側(医師側)が過失がないことを立証すべきことになっていたり、

証券取引法監査においては、株主ではなく、疑われている監査法人の側に過失がないことを立証すべき責任があったりする。

つまり、考え方として、常に「疑う側が証明しなければならない」というのは間違いで、

ましてや、行政不正の疑いについては、その説明を求めることが「悪魔の証明論」で否定されるべきような理屈にはなりようがない。

とはいえ、実際には証拠が続々・・・

殺人事件や強盗事件とは異なり、「口利き」や「影響力行使」といった事件では、内部告発のような形でないと、なかなか証拠は集まらないもの。

それでも、この加計学園の事例では、文科省からメールがリークされたのか、その実態が公に知れ渡ることとなった。

あとは、「シラきりショー」をいつまでやるのか?

の問題になったといえるだろう(2017年6月時点)。

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